ドイツの3段階審査その1
3 ドイツの3段階審査とはどのような審査方法か。 3段階審査Drei-Schritt-Prüfungと聞くと高度な理論かと身構えるかもしれませんが、とくに変わった審査方法ではありません。日本の伝統的な解釈学からすれば違和感なくなく受け入れられるでしょう。ドイツでは人権のことを伝統的に基本権といいます。イギリスでも人権human rightsのことをfundamental rightsといった時期がありました。どちらの言葉を使っても同じ意味です。人権=基本権=基本的人権。微妙な違いをとらえて人権と基本権は違うという人がいますが、それは、由来が違えばどこまでいっても平行線をたどるという誤った比較文化論に基づくもので賛成できません。 ※ついでながら「法の支配」と「法治国家」が違うことを力説する人がいますが、これも由来や歴史が違うだけで現代における機能は基本的に同じです。日本国憲法の解釈論において両者の違いを強調することはやめた方がいいでしょう。憲法には「法の支配」も「法治国家」も出てきません。日本国憲法98条と81条を素直に読めば「憲法の優位」と裁判所の違憲審査権が確認できるはずです。「憲法の優位」が「法の支配」、「法治国家」どちらの歴史的概念に近いかということは憲法解釈にとって大して重要なことではないでしょう。 3段階審査とは、「基本権(=人権)は、憲法で保障(保護)されている最上位の権利であり、議会の制定する法律やそれに基づく公権力行使といえども原則として基本権に介入してはならない(原則として基本権を制限してはならない)。しかし、介入(=制限)を正当化できる特別の理由がある場合には、例外的にその介入(=制限)は許される」という理論です。介入が正当化される場合は、人権侵害*にはならないので合憲となります。 これだけのことです。これを刑法の違法性阻却の理論と似ているといった人がいますがどうでしょうか。 *ここで言葉の問題ですが、介入ないし制限と「侵害」という言葉は使い分けられています。ドイツ語ではEingriff(介入)ないしBeschränkung(制限)とVerletzung(侵害)の区別です。侵害は即違憲ですが制限は即違憲ではありません。行政法は「侵害行政」という言葉をよく使います。しかし、侵害行政は直ちに違法とはなりません。侵害行政には許される侵害行政すなわち適法な侵害行政があるからです。しかし、いま、侵害行政を「介入行政」と言い換えてみます。介入行政には適法な介入行政と違法な介入行政があり、違法な介入行政の場合だけを侵害行政と呼ぶということにしたらどうでしょうか。訳語の問題だといえばそれまでですがドイツの憲法では侵害即違憲と考えて、どのような場合であれば人権「侵害」にならないかを考えます。この訳語が気に入らないという人は人権蹂躙という言葉を使ってもいいでしょう。人権侵害即違憲ではない。人権侵害にも許されるものと許されないものがあり、許されないものは人権蹂躙ということにすると。日本の裁判所の概念使用ははっきりしませんが、人権侵害即違憲という言葉遣いはしていないようです。「人権侵害だが公共の福祉その他によって正当化されるので合憲だ」と説明するか、「人権が制限されていることは確かだが公共の福祉その他によって正当化されるので人権侵害はない。したがって合憲だ」と説明するかの違いです。ドイツの3段階審査論について書かれたものを読むときには後者の立場で読む必要があります。 前半の「原則として基本権を制限してはならない」というところは2つの問題に分けて考えることができます。基本権かどうかという問題と制限しているかどうかという問題です。 そもそも基本権でない利益や権利を制限しても違憲とは判断されませんから、当事者の主張している権利・利益が憲法で保障されている基本権に該当するかどうかが第1関門となります。つまり基本権の保護領域に含まれるかどうかが第1段階の審査です。たとえば焼身自殺をしようとした人が警察に止められて目的を達し得なかったとします。このトラブルについて考えるときに、自殺の自由が憲法上の権利であって憲法で保護されているとすれば、憲法訴訟になりますが、そうでなければ憲法訴訟にはなりません。自殺の自由が人格的自律、あるいは人格的生存(?)に関わる重要な権利であるかどうかは大問題です。13条の保護領域に入るとなれば人権問題になります。自殺は犯罪に近いもので失敗しても処罰はしないが自己決定権に属するものではない、あるいは天地創造の神に対する冒涜であるといった解釈をすれば人権問題ではなくなります。これに対しては自殺と尊厳死とで異なるところは何もない、自殺は究極の自己決定権であるという解釈もあるでしょう。自殺にもいろいろあって政府に抗議する焼身自殺は表現の自由であり自己実現と自己統治の価値があるという解釈もあるかもしれません。 このように、憲法訴訟では、そもそもそれは人権問題か、日本国憲法の規定する条文(人権カタログ)の保護領域内にあるかを先に問うてみる必要がありますが、それを問わずに目的手段審査から入ろうとする人がいます。「そもそも人権か」という憲法解釈の第一歩を忘れないようにするという意味で、第1段階の審査を行うことは意義があるといえるでしょう。私たちの世代からすれば、憲法判断において第1段階の審査をすることは当たり前のことで、あえて取り上げて説明するようなことではないのですが、予備校教育を受けて憲法とは何かを見失っている学生にとっては、保護領域に含まれるかどうかの審査を意識することは重要なことかもしれません。 最高裁は、君が代ピアノ伴奏強制訴訟でピアノ伴奏拒否はそもそも外形的なものであって思想良心の自由とは直接関係がないかのような言い方をしました。これは、第1段階の審査で原告の主張をしりぞけたものだとして学説上厳しい批判を受けています。ふつうは、人権だけれども公共の福祉によって制限される場合があるという正当化が行われる(3段階審査)ものですが、第1段階の審査だけやって、そもそも人権ではないという逃げ方をしているのがけしからんという批判です(渡辺康行論文参照)。 私も同意見です。思想良心の自由を人の態度(行為)から意図的に切り離すと、中世の踏み絵も外形的行動の問題になり、内心の自由とは関係ないと強弁することが可能になります。思想・良心の自由はふつうは世俗的な世界観・人生観に関わるものとして理解されていますが、もともとは信仰の自由に由来しています。宗教も純粋に心の内の信仰と外形的な宗教活動とを区別することはできません。十字架のブローチをしている人に対して、「あなたの信仰の自由は保障するが、信仰は人に見せるものではないのでブローチは禁止する」といったらどうでしょうか。これで信仰の自由は保障されているといえるでしょうか。「あなたの神への畏敬の気持ちは尊重するが、人に見せるものではないから神社で柏手を打つのはやめなさい」とか「地べたに頭をこすりつけるのはやめなさい。周りの人が気持ち悪がる」といったらどうでしょうか。世俗化した(宗教色を失った)世界観・人生観の自由も同じです。思想・良心の自由を純粋に心の中の問題にして、保護領域を限定するのは、19条の解釈を誤っているといわざるをえません。どんな独裁政権も人の命は奪っても人の心までは奪えないというのは事実ですが、それでもって「心の自由」が保障されているとはいいません。憲法が規範として保障しようとしていることはそのようなことではないはずです。外形的行為を含む態度の自由を保障しているはずです。態度の自由までが19条の保護領域に入るとすべきでしょう。 昔は、名誉毀損やわいせつ表現は、そもそも表現の自由の範囲内ではないという議論がありました。これなどは、第1段階の審査が主戦場ということになります。今は、表現の自由の保護領域に含まれることを否定する見解は見られず、第3段階で制限が正当化できるかどうかが議論の中心になっています。したがってわいせつ表現についても「そもそも保護されない」とはいえません。仕分けが必要になります。芸術性や科学性を考慮したり文字による表現か映像による表現かとかハードコアポルノかどうかとか、あるいは規制の対象が青少年に限られているかどうかなど、受験生泣かせのややこしい議論が正当化のレベルで必要になります。 先ほどのピアノ伴奏強制訴訟に戻ると、思想の自由は内面的精神的自由なので公共の福祉をもってしても制限できないという学説があります。最高裁もこれを支持しているふしが見られます。この議論に寄りかかると第3段階の審査において、強制の正当化がむずかしくなります。それで、戦場を第1段階に移してそこで勝負をしようとしたのだろう(ごまかしたのだろう)というのが私の推測です。しかし、それによって議論のレベルが著しく低いものになってしまったということもできるでしょう。 今まで紹介した議論から察しのいい人は気がついたでしょうが、3段階審査の結果の妥当性を確保しようとするとき、各人権の保護領域を広く取りすぎると最後の審査でどう絞るべきかを悩むことになります。かといって最初から保護領域を絞り込むと、複雑な現代社会で提起される新たな人権問題を拾い上げることができないという問題が生じます。人権問題のインフレ化を防止するためには保護領域を限定すべきだという主張もあります。日本の13条が打ち出の小槌(ドラえもんのポケット)のように使われ、どうでもいいようなトラブルや無理筋の訴えが憲法訴訟になることを懸念して、有力な学説は、人間の行為一般の自由が13条で保護されるわけではなく、人間の行為のうちで人格的自律や人格的生存に関わるものだけが13条の保護対象になるという理論を用意しています。これは保護領域をあらかじめ狭めておくことによって、後での正当化のための議論を回避する解釈論だといえます。 ドイツでは日本の13条に相当する条文として基本法2条1項があります。「人格の自由な発展を求める権利」として知られています。しかし、その解釈としては「人格」にこだわらず、一般的行為自由が2条1項で保障されているというのが通説となっています。実は、ドイツでも人格権と一般的行為自由を区別する議論がありますが、ここでは深入りせず2条1項の保護領域は非常に広いということだけ確認しておきます。芦部信喜は、人格的生存に不可欠ではないために13条に根拠づけることができない行為であっても国家はそれを自由に制限していいわけではないという趣旨のことをのべています(教科書117頁)。ドイツの理論の影響を感じますが分かりいいとはいえないでしょう。 第2の関門は、国家が憲法上の自由に対する介入(=制限)を行っているかどうかという問題です。深い介入(=制限)から浅い介入(=制限)まで介入(=制限)の程度はいろいろあるでしょうが、介入のあるなしは、誰が見ても分かる場合が多いでしょうから、ふつうは論証の必要はないでしょう。しかし、国家による助成や奨励の場合は微妙な問題を引き起こします。優れた芸術作品に対して国家が表彰したり助成金を支出する場合、国家が芸術の自由に対する介入(=制限)を行っているといえるのかが問題となります。介入(=制限)だとみなされれば正当化審査である第3段階に移らないといけませんが、そうでなければ第3段階の審査に移るまでもなく合憲だということになります。そもそも国家による介入(=制限)が存在しないからです。助成金を支出すること自体は自由への介入ではないが、支出のしかたにおいて作者や芸術作品の思想信条や政治的立場を問題にするようになったり、後でそのことを理由に取り消したりするようになれば介入(=制限)があるという判断もあるでしょう。アメリカでいういわゆる「政府言論」の問題ですが、この審査はなかなか難しいでしょう。 国家でない者が介入した場合どう考えたらいいかは第3者効力に関する問題ですが、ここではおいておきます。 人権の制限は、原則として許されないが絶対的に許されないものではない。正当化に成功すれば許される。そういう意味では、基本的人権の尊重が原則で公共の福祉が例外であるという日本国憲法の構造と似ています。しかし、不幸なことに日本の裁判所は、必ずしもそのような形で人権の解釈論を展開してきませんでした。公共の福祉による正当化を例外的なものだとして、国家の側にその正当性を証明させ、それができない場合には裁判所が違憲判断をするということが確立していれば、日本の憲法判例の様相は大きく違っていたでしょう。違憲判決はもっと多くなったでしょう。原則と例外が逆転した運用が長く行われてきたためにいろいろな問題が生じているのです。逆転を正常な姿に戻そうとがんばった学説の1つが二重の基準論です。しかし、人権が全体として優越的地位を有することは日本国憲法から導かれることです(11条、97条、98条)。何もアメリカのように人権の間に優劣(人権の序列化)をつけなくてもよかったのではないか。それが逆に問題視されていることについてはすでにのべました。 そこで、すべての人権について「原則として制限してはならない」ということを確認した上で、どういう例外的な理由や条件があれば制限の正当化ができるかを考えてみようというドイツの3段階審査論は、日本国憲法とも適合する素直な違憲判断方法論だといえます。しかし、第3段階の正当化審査のあり方を一般的に論じることは非常にむずかしいでしょう。権利の性質によっても違うし制約の必要性や根拠によっても違うでしょう。「公共の福祉」をめぐる解釈論争で決着がつかなかったように、事案の個別具体的な検討を行わなければ妥当な結論は得られないでしょう。ドイツの3段階審査も機械的に処理することはできないという点ではアメリカの審査・判断方法と同じです。3段階審査も魔法の杖ではないということは、いくら強調しても強調しすぎることはありません。試験で情報に振り回されるタイプの人は気をつけましょう。データを入力して手順を追って機械的に処理すれば答えが出るのであれば、法律家は必要ありません。 さて、第3段階の審査は、〔法令違憲のレベルでいえば〕人権を制限する法律、つまり憲法違反の疑いのある法律に対して、その疑いを晴らすだけの正当性があるかどうかを審査することになります。ドイツの教科書では、次のようなハードルをクリアしなければならないといっています。 1法律が正規の立法手続を経て有効に成立していること。 2人権に法律の留保がある場合とない場合とを区別して、 a)特別の留保がある場合は特別の要件を満たしていなければならない。 b)法律の留保がない場合は他の人権などの憲法上の利益を実現するためでなければ介入(=制限)は正当化できない。 〔ふつうの法律の留保がある場合は〕 3法律の留保が認められるとしても、それは議会の留保の要請が満たされなければならない(他の機関への白紙委任は認められない)。 4介入(=制限)が比例原則に合致していること。 5制度的保障を伴う人権については、制度を破壊しないこと。 6介入(=制限)の内容が人権の本質的内容に及ばないこと(核心部分への介入(=制限)でないこと)。 7法律の一般性が守られていること。個別事件に対処することを目的とする法律(=処分的法律)であってはならない。 8法律の留保が認められている人権については、法律においてどの人権を制限するかを挙示しなければならない。 9法律が構成要件と法効果において明白・明確であること(明確性の要件)。 10法律がその他の憲法規定と矛盾・衝突していないこと。 すべてのハードルをクリアしなければなりません。いずれかのハードルで躓けば違憲となります。 (この項続く) ※ドイツにおいては今日でも法律の留保というのは非常に重要な意味をもっています。法律の留保があるかないかでは正当化の難易度(審査の厳格度)が変わってきます。日本国憲法の保障する自由権では法律の留保を伴うものはむしろ例外であるので、この基準を忠実に運用しようとすると非常に厳しいものになります。したがって、日本の人権もドイツの基本権と同様に法律による制限が認められることを前提としないと使えないでしょう。しかし、このような違いに目をつぶったとしても、最高裁の判例と比べれば、より厳格な審査が行われる可能性は大きいでしょう。 ※特別の留保というのはあまり聞いたことがないかもしれません。ドイツ基本法では、表現の自由は無制約なものではなく、青少年の保護や個人の名誉保護等を理由に制限できると規定されています(5条2項)。このような特定目的のために自由を制限することは憲法上許されるが、そのほかの理由では法律をもってしても制限することはできないというのが特別の留保の意義です。日本の場合、憲法に何の留保も付されていないのに、青少年保護条例等で表現の自由が規制されています。しかもそれらがすべて最高裁によって合憲とされています。
このページは前のページからの続きです