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憲法制定権力と憲法改正

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質問 > 丸山真男について調べていてこのHPおよびブログに行き当たりました。富田先生の丸山 論を読んで教えられるところが多く、また関学9条の会を立ち上げられたこと、尊敬しま す。質問があるのですが、丸山が『日本の思想』の中で、明治憲法の欽定以来、この国で 憲法制定権力」の所在が問題とされることはなかった、と書いていたように思います。今 回の改憲の動きの中で、もう一度憲法制定権力」とはなにか、またそれはどこにあり、改 正」案を起草する主体はどのように選ばれるべきか、という議論を提起することはできな いのでしょうか。われわれは国民投票」を待つことしかできないのでしょうか。不勉強で、 どこかでこうしたことが議論されているのでしたらお教えください。 >

長岡@法学部です。  冨田さんの提起された問題に適確に答えられるかどうか、人権の解釈論ばかり やっている私には、不安です。松井さん、永田さん、教えてください。  私の理解では、憲法制定権力は古いconstitutionを破壊し、新しい constitutionを打ち立てる権力ですから、そのすべてを法の下に飼い馴らすこと は不可能です。憲法改正権は、現在通用している憲法によって制度化された憲法 制定権力です。このことは少なくとも2つのことを意味します。  1、主権者を自任する者は、憲法典に書かれた改正手続きによることなく、憲 法を改正することができる。ただしこの場合には、旧憲法の否定と新憲法制定の 正統性が正面から争われることになるので、正統性をめぐる争いに政治的・社会 的な(法の外の世界での)決着をつける必要があります。一般には革命(的変 化)と呼ばれるものですね。新憲法の制定です。  2、憲法改正というのは、これと異なり、新憲法の正統性根拠を旧憲法に求め る憲法の変更のことです。ですから、旧憲法の改正手続きに従うことが条件とな ります。ただ、憲法の正統性根拠は、憲法制定の手続きにのみあるのではなく、 憲法の内容にもあります。したがって、旧憲法の基本原則や基本的原理を否定す る内容の変更を改正の名で正当化することはできません。  今回の自民党の改憲案は、9条関係のところを除くと、現行憲法の手直しにす ぎません。この憲法案がそのまま成立したとして、憲法以下の法律のどのような 改正が必要になるか(不可欠か)という観点から考えればわかります。最高裁の 国民審査にかかわる法律や財政にかかわる法律に若干の修正が必要になるでしょ うが、大幅な修正というほどでもなさそうです。教育基本法の改正が求められる でしょうが、それも法的整合性のために必要というよりも、政治的整合性のため に必要でしょう。これらの点は確かに憲法の修正ですから、現行憲法の改正手続 きにしたがってなされれば、さほどの問題は生じないはずです。  9条関係の改正はこれらとは異なります。自衛隊法、防衛庁設置法等の全面改 正はもとより、軍事裁判所が管轄する事項を定める諸軍法の新設、有事法制全般 の見直しも必要となるでしょう。もともと「自国の領土を防衛するために必要最 小限度の実力を行使することができる」にすぎない国家から、「国際社会の平和 と安全を確保するために」武力を行使することのできる国家への変更が、たとえ 9条1項をそのまま維持したとしても、憲法の基本原理にかかわらない変更とい えるかどうか疑問です。「21世紀仕様の新憲法」(日経の見出しの用語です) というだけでは、この変更を正当化できないように思います。  改憲派としても国民投票に敗れでもしたら、また半世紀立ち直れないという思 いでしょうから、国民投票での必勝体制をつくらなければ国民に提案できない。 したがって、これから国民的合意を調達するための手立てを尽くそうとして来る でしょう。民主党とのすりあわせ協議、つぎの参院選での影の争点、中央・地方 の公聴会、マスコミの動員。国際関係の緊張を演出しかねないと危惧していま す。いずれにせよ、単に「国会の3分の2を越える議員の意見だ」というだけで なく、それが「国民の総意を正しく代表しているのだ」という表象を整えようと するはずです。  表向きは国会内部で事態は進行するように見えますが、「国民」が登場する機 会はこれからまだまだ出てくるはずです。政治家の目に見える形で「国民」を登 場させ、「国民世論」を形成していかなければならないと思います。  自民党は「新憲法の制定」といい、新vs旧、「改革」対「守旧」という構図を 作ろうとしているようです。私自身は「古くて何が悪い」「古民家再生がトレン ドだ」と思いますが、これじゃ多数意見になりませんかね。

豊下@法学部ですが、大変難しい問題で、フランスや米国など近代憲法の制定過程については専門家にお任せするしかありません。国家崩壊後の制憲過程については、第 二次大戦後のイタリア、ドイツ、今のイラクのように、とにかく憲法制定会議をつく り、そこで草案を作成して国民投票にかけるということですが、直接統治下におかれ たドイツの場合には国家レベルの制憲の前に自主的な州憲法の制定が先行し、それが 国家レベルへも影響力をもったという意味では、間接統治の日本の場合よりはるかに 民主的であった、ということが言えるでしょう。イタリアの場合は、君主制か共和制 かの問題は、制憲とは別に国民投票が行なわれました。  ところで、昨日の神戸新聞で宮崎哲弥は、そもそも憲法は国家を縛るためのものだか ら国民に義務を課すような改正条項には反対であること、近代に入って日本国民は一 度も憲法制定意思の発動をきちんとやってこなかったから国民投票が行なわれるなら 他人任せの考えが変わる良い機会になるのではないか、という立場を明らかにした上 で、現憲法が軍事の存在を認めていないのに自衛隊が存在することから「イラクまで 自衛隊が行く」ような事態となり憲法的な意味での縛りが一切かけられていない以 上、歯止めを明確にする9条改正を考えるべきだ、またコスタリカでも国家緊急権の 規定がおかれていることに見られように、この点も憲法上明確にすべきではないか、 と主張しています。  こういう議論はこれまでも様々に出されてきましたが、上の問題に戻るならば、憲法 制定権力を考える場合、幸か不幸か護憲派の主流は少なくとも当面は現行憲法を全く 変えるなという立場でしょうから、制定論への関わりが限定されるという問題が生ず るのではないか、ということです。ここをどのように考えるべきか、ということで しょうね。  以上はさしあたって思いついたことを書き並べましたが、私が強調したいことは、今 回の問題や軍事法廷の問題、さらに以前に書きました若い世代の脅威認識の問題を始 め憲法改正をめぐる論点は重要かつ多岐に渡っており、互いに相当に勉強していかな いと対応できない問題が数多くあるということです、ただその一方で、学内には様々 な専門家がおられる訳です、そこで9条の会の設立を契機に、学内でオープンな研究 会を設けて研究と議論を深めていく、という方向を目指すことができないかと考える のですがいかがでしょうか。  ご意見、ご批評を頂ければ幸いです。

司法研究科の永田です。   憲法制定権力とは何かという問題は難しい問題です。上記の質問に即して答えると次の  ようになります。近代憲法を作り出した権力は、君主権力を打ち倒した国民あるいは人  民ですが、その始原的な権力を行使した国民と、制定された憲法の枠内において意思を  表示したり行動したりする国民とは分けて考えます。フランス語ではプープワール・コ  ンスティテュアンとプープワール・コンスティテュエといいます。   さて、憲法改正との関係でこの問題を考えるとどうなるかということですが、憲法改正  権は始原的な権力ではなく、既存の憲法の枠内においてその手続きに従って行使される  ということです。国民も立憲主義に服するということです。主権者たる国民は当然その  手続きに参加しますが、その意思表示の方法はさまざまであり、常に国民投票という方  法がとられるとは限りません。日本国憲法においては、それが必要不可欠のものとして  規定されているということです。国民といえども憲法の原則に反する改正や憲法改正規  定を変更することはできないというのが学界の通説になっていますが、それは、プープ  ワール・コンスティテュエを前提としているからです。   自民党の「新憲法」案は、国民を憲法改正権の主体ではなく単なる承認権者に地位を落  としています。改正規定を変更することは憲法制定権を侵害することになり許されませ  ん。これが行われると改正権の限界を超え「憲法違反の憲法改正」となります。自民党  が日本国憲法の部分改正方式をやめて全面改正方式に転換したのも、そのことを意識し  たためです。すなわち、平和主義の原則や憲法改正規定に手をつけると憲法改正の限界  を超えるという批判を浴びることになるので、いっそうのこと、新しい憲法制定権力に  基づく新憲法の制定という形を取ったほうがいいと考えたためです。もちろん、どちら  も憲法制定権力を行使するのは国民ということでは変わりがなく、明治憲法から日本国  憲法への移り変わりのような制憲者の変更はありません。手続も、日本国憲法の改正条  項を使って行われますが(不自然にも日本国憲法制定の時にもこの手法が使われました)  、新憲法制定以後は、現憲法ではなく第3次憲法たる新憲法の改正条項に基づいて行わ  れることになります。   したがって、自民党の憲法改正案は、プープワール・コンスティテュエに基づく改正案  ではなくプープワール・コンスティテュアンの変更を含む(国民から国民へという点で  は変わりませんが)革命的なものだといういい方も可能だと思います。

 司法研究科の松井(幸)です。  「憲法制定権力」について、永田さんと長岡さんの周到なご説明に付け加える とすれば、次のようなことがあるのではないかと思います。  近代憲法は、国家権力とその発動を正当化するとともに拘束するためのもので すが、この体制を成立させるためには既存の体制を根源から転換させる正当化原 理が必要となります。フランス革命でいえば、それまでの「この国のかたち」 (=フランス「王国の基本法」)を覆すために国民主権に基づく「国民の憲法制 定権力」が必要となったように。(体制の転換や断絶ではなく、その連続性、継 続性が強調される国、例えばイギリスでは、そもそもそのような観念は存在しま せんでした。)  しかし、この「憲法制定権力」(以下「制憲権」といいます)は、内容的にも 手続的にも法的には何ものにも拘束されない絶対的な権力ですから、制憲権の発 動として新しい体制を作った勢力にとっても、それをそのまま野放しにしておく ことはきわめて危険なことに違いありません。憲法は体制保障法でもありますか ら、新しい体制は自分を脅かしかねない「制憲権」を現実世界からは放逐し、凍 結し、ただ現体制を正当化するための「正当性(正統性)」原理としてのみ観念 的に存在することが望ましいことになります。  他方、近代社会は憲法を頂点とする法的な制御を受ける国家(「立憲主義」。 最も広い意味での法の支配)を前提としますから、憲法の変動も憲法の枠組みの 中で正当化される必要があります。「憲法改正権」(以下「改正権」といいます) はそのようなものであり、それは「憲法を作る権力」(=「憲法制定権」)では なく、「憲法によって作られた権力(権限)」ということになります。とすれば、 「改正権」は「制憲権」によって作られた憲法自体によって制約を受けることに なります。憲法改正限界論(憲法改正規定は改正できない、ということも含む。) ということになります。  もうひとつ見ておかなければならないことは、「国民」の「主権」や「憲法制 定権」といっても、それがイデオロギーであるということです。フランス革命で はこの「国民」が「ナシオン」か「プープル」かで激しく争われ、それは憲法理 論上非常に重要な問題ですが、そのいずれであれ、それらがイデオロギーである ことは違いないと思います。「国民」は一様でありませんし、その意思も単一不 変のものではないからです。近代憲法は「国民」の名の下に王権を打ち破り、ま た「国民」の内実をめぐって諸勢力が相争い、その結果主導権を握った階級・階 層、そして勢力が「国民」という名の下に新しい体制を打ち立てたものでしょう。 また、その後の憲法史の展開も、そして現在における「国民主権」についても同 様のことが言えると思います。  さらに付け加えれば、「主権者」=「国民」の意思を確認するための制度も、 それはひとつの「擬制」であるという問題もあります。その制度のひとつは選挙 ですが、先の総選挙で圧勝した自公の得票率は半数に届かなかったということは、 その「擬制」性を示しているように思えます。しかし、政治は「国民の審判を受 けた」として一人歩きしがちです。このような問題は1970年代以降イギリスでは 「選挙制独裁」の問題として議論されていることです。  これらのことを前提にしますと、次のようなことに留意する必要があるように 思えます。  「制憲権」は、体制支持派はその凍結を望んだとしても、歴史上ことある度に 政治の舞台に登場してきました。既存の体制を攻撃し、それを法的な制約なく抜 本的に転換するためには有用なものだからでしょう。東欧革命のような新しい体 制と転換を必要とする場合のみならず、ファシズムであれ、独裁であれ、それを 「国民」の名に於いて正当化するのには便利な観念です。  他方、より日常的には、憲法が定める「国民主権」の下でも。「国民主権」だ から「国民」が決めればすべてである、というようなかたちで。日本のように憲 法改正に国民投票が用いられるところでは、それは、憲法改正国民投票で決めれ ば何でもできるという考えに連なると思います。でも、「憲法改正権」で登場す る国民をはじめ、「国民主権」は生の国民主権=「制憲権」ではなく、日本国憲 法上の「国民主権」であるはずです。憲法が保障する自由・人権や権力分立、そ して日本の場合には平和に特別の重点を置いた「国民主権」であるはずです。  主権者国民が決めればいい、それが民主主義だ、という考えは一般受けしやす いわけですが、近代立憲主義は、主権者君主を否定するだけでなく、主権者国民 (正確に言えば「主権者」である「国民」の「支持」を得た国家権力)をも制限 し、制御・統制することを目的としてきたといえるでしょう。 ○ 日本には「制憲権」という考えがなかったということについて言えば、現行 憲法の「制憲権」における特殊状況(講学上は「国民」ということになりますが) が憲法の正当性を攻撃する自民党の「自主憲法制定論」を生み、それは先日の自 民党の草案(前文案)にも引き継がれているようです。「改正権」と「制憲権」 の違いは、意識的か無意識的かは分かりませんが、区別せずに事が進められよう としているような気がします。明治憲法における「制憲権」のことはよく分かり ませんが、「皇祖皇宗」に始まるとされる「神勅」天皇制との把握と関係してい るのかもしれません。  政府の改憲に対して真の「国民の憲法制定権力」を対峙させるという考えの理 念的意味はよく分かりますが、それが両刃の可能性があることは十分見ておく必 要があるのではないでしょうか。