Welcome, Guest
Help FullScreen Japanese

憲法改正の壁(1)-9条はアジア統合のかなめ-                         司法研究科 永田秀樹 はじめに 1 憲法は何のために存在するか 2 憲法は新しいほどいいか 3 何のために憲法を改正するのか 4 憲法改正に限界はないか 5 9条の改正は許されるか 6 憲法の改正か新憲法の制定か 7 アジア統合のかなめとしての憲法9条

リンク元へ戻る

トップページへ

 はじめに  日本国憲法は、1946年11月3日に制定され1947年5月3日から施行されました。日本でほんものの立憲主義の政治が始まってから約60年が経過したということになります。戦後、日本は戦争だけでなくクーデタや独裁政治も経験していませんが、これは他のアジア諸国と比べた場合、またかつての日本の歴史を振り返ってみた場合、驚嘆に値することです。アジアの奇跡といってもいいかもしれません。  さて、この間、一度も憲法の改正が行われていません。『六法』は毎年真新しく改訂されて書店に並びますが、その冒頭の憲法の条文は60年前のままです。これだけ日本社会が大きく変わったのに憲法だけ変わらなくてもいいのかという疑問が出てくるのは当然のように思えます。「畳と何とかは新しいほどいいということわざもある。新しければ新しいほどいいとも思わないが、そろそろ衣替えしてもいいのではないか、憲法にもくたびれている部分があるのではないか」というわけです。このような声に対しては「良いものはいつまでたっても良い。むしろ古いもので時代とともに輝きを増してくるものもある。9条はまさにそのような価値のあるものだ」という反論がなされます。私も9条に関してはその通りだと思いますが、一般的にいって、憲法の改正が一切許されないとは考えません。  そこで、はじめに9条の問題から少し離れますが、そもそも憲法改正はどうあるべきかということから考えてみたいと思います。  1 憲法は何のために存在するか  憲法とは何のために生まれてきたのでしょうか。憲法も法の仲間ですが、法一般とは違う大きな特徴があります。憲法は、それまで圧政に苦しめられていた人々が立ち上がり、自分たちの主張と立場を権利の形で条文化し、それを法の世界での最高規範として支配者に認めさせた文書です。憲法は、民衆に対して発せられる命令ではなく、下から権力者に向かって投げかけられた命令規範や禁止規範です。法はしばしば人々の行動の自由を奪いますが、憲法は権力者の行動の自由を奪います。憲法は、権力者の手足を縛るために作られたのです。つまり、ベクトルがふつうの法と逆なのです。たとえば憲法は、権力の座にある者が、特定の宗教を国家宗教として保護したり特権を与えたりしようとする行為を禁止したり、人殺しが嫌いで戦争に行きたくないと思っている若者をむりやり戦争に参加させることを禁止したりします。それによって人々の精神の自由や行動の自由を守ろうとします。  憲法の特色を明らかにするために、刑法や行政法と比較してみます。ハムラビ法典の発見によって、刑法は紀元前18世紀から存在することが分かっています。本当はもっと前からあったかもしれません。行政法も為政者が政治を行うために必要なものですから、ヨーロッパでもアジアでも国家と支配者が生まれた時代からあります。人々を支配するのにむき出しの権力的支配よりも法規範による支配のほうがスマートで効率的ですから。  日本の古代でも支配が確立すると中国の法制度にならって律(刑法)や令(行政法)に基づく政治すなわち律令政治が始まりました。しかし、さまざまな法制度はあっても古代に憲法はありませんでした。聖徳太子の17条憲法があるだろうという人がいるかもしれませんが、あれは法というよりも道徳だという方が正確です。偉いお坊さんの教えと変わりません。法に分類できるとしてもせいぜい今日いうところの公務員法でしょう。人民の権利を守ってくれる憲法とはいえません。  近代的意味の憲法は近代から始まったかもしれないが、実質的意味の憲法は、古代からあったという人がいます。しかし、それは歴史的事実の問題として間違っているだけでなく、今日につながる憲法の存在意義を理解していないという大きな誤りを犯しています。長い間、各国の政治は憲法なしで行われてきました。法に基づく政治はあっても憲法に基づく政治はありませんでした。それが市民革命の成功によって初めて憲法に基づく政治が行われるようになり、その後は立憲政治でなければ正当な政治とは認められなくなりました。  最近「国のかたち」ということを良く耳にします。「国のかたち」ということであれば古代にもあったかもしれません。しかしそれは憲法規範によって拘束されている「国のかたち」ではありません。一般に流布している大きな誤解に「憲法イコール最高規範」、「最高規範イコール憲法」というものがあります。憲法は最高規範だというのは正しいですが、最高規範は憲法だというのは正しくありません。ここが理解できないと憲法の存在意義は分かりません。たしかに現代はバチカン市国などの例外的な国を除き、どこの国でも憲法が「国のかたち」を決めていますから、立憲主義は常識になっています。しかし、それは人類の長い歴史の中では新しいことに属するということを知っておく必要があります。安定した立憲政治はどこの国でも難しい課題です。権力者は、独裁政治を正当化するために最高規範としての憲法を利用することさえあります。日本で立憲主義が60年も続いているのが驚嘆に値するといったのもそういう意味からです。    2 憲法は新しいほどいいか  ここで、「憲法は新しいほどいいか、それとも古いほどいいか」という問題に答えるならばつぎのようになります。憲法が昔に作られてそれがいくつかの修正を受けつつも基本的な部分において、つまり憲法の存在意義に関わる部分において生き残っているのであれば、その国の立憲主義は歴史があり、かつ本物であると評価できます。  アメリカ合衆国の憲法は世界で最も古い憲法です。修正は何度か行われました。たとえば人種差別をなくすための人権規定の追加などです。しかし、本体部分はそのままで、現在まで、新憲法に取って代わられることなく生き延びています。これは立派です。フランスは同じく最も早く憲法を作った国の1つですが革命後、帝政が復活したりして共和制が否定されてしまったときもあります。現在、第5共和制ですが、1789年のフランス革命時の人権の部分は生き残っていて、現在のフランス憲法の構成部分であることが前文で確認されています。ここでも、憲法の存在意義に関わる部分は、伝統として受け継がれていることが分かります。このような意味では、古い憲法ほど優れているといえるでしょう。  逆に、政変とともに原則まで含めて憲法もくるくると変わっているというのであれば、不安定な政治が続いていることのあかしになります。戦後も長く独裁が続いた韓国の例などを見れば分かると思います。韓国は戦後9次に及ぶ改憲が行われました。そのたびに国民の自由が拡大してきたかといえばそうはいえません。クーデタや政変による、為政者の権力基盤を強化するための改正がほとんどでした。憲法は権力者の支配の道具にすぎなかったのです。本当の意味で近代的な憲法が作られたのは1988年制定の第6共和国憲法です。これが現在まで続いています。この憲法は民衆の運動によって作られたもので韓国の歴史においては画期的な憲法です。これは、おそらく永続きするでしょう。  そういうわけで、憲法は新しいほどいいわけではない。次々と新しい憲法が作られる社会は、その国の政治が不安定であり独裁などが発生しやすいことを意味している、民主主義と人権が未成熟の社会である可能性が高い、ということです。  しかし、全然修正されない憲法がいい憲法かと問われればそうではないと答えざるを得ません。憲法の存在意義に沿ったかたちで、その内容をより豊かにするような修正まで否定することは間違っています。では、どのような修正が望ましいのか項をあらためて考えてみましょう。  3 何のために憲法を改正するのか  憲法の意義が国民の自由と平穏な生活を守るために権力を制限することにあるとしたら、その憲法を改正する意義はどこにあるのでしょうか。  その前に予備的知識として少しだけ用語の問題を説明します。よく「改正はいいが改悪はいけない」「創憲ならいい」「加憲はいい」といったりします。憲法改正とは憲法改正手続にしたがって憲法の条文を変更することです。ここで「憲法改正」という言葉を使わず「憲法変更Verfassungsaenderung」だといえば「変更」は良い・悪いの価値判断を含まない中立的な言葉ですから誤解が生じる余地はありません。変更によって良くなることもあるし悪くなることもあります。しかし、「憲法改正」だというと日本語の「改正」は良い方向での変更という意味合いが含まれているので誤解を生むおそれがあります。他の法律でも同じように、条文を変更するのは、どこか不具合が生じたために手直しをするのですから改善・進歩をもたらす場合が多いと考えられます。コンピュータのソフトウェアのバージョンアップなとがその例です。しかし、コンピュータのソフトウェアでもときに新バージョンは機能は増えたけれども思わぬ大きな不具合が発生したり、自分にとってはかえって使いにくくなったりして、旧バージョンに戻すということがあります。単線的な発達と見える技術の進歩でもそういうことが起こります。ジグザグの発展を遂げる社会の進歩の場合はなおさらそうです。憲法の場合、それによって大きな社会変動が生じますから慎重になるのは当然です。言葉の問題といってしまえばそれまでですが、ときに「なぜ改正に反対するのか」「なぜ改革に反対するのか」という乱暴な議論を見かけます。一般的に「改正」が改悪となる危険性の認識を思考回路から排除すべきではありません。  そのことを前提として、憲法改正の目的と必要性について考えてみましょう。すでに述べたように、立憲政治の開始は、明らかに社会の進歩を意味します。権力を制限する手段を手に入れた市民としては、世の中を再び憲法のない時代に逆戻りさせようとは思わないでしょう。しかし、維持するだけでなく、さらに高い水準を市民が要求することもあります。プライバシーや環境の保護などの新しい社会的価値を憲法上の人権として承認することや、死刑制度を廃止したり、直接民主主義的な制度(国民が直接司法権を行使する裁判員制度など)を導入したりすること、あるいは大学教育まで含めて教育を無償にすることなどが考えられます。もちろん、発展した社会にあわせての高い水準の人権を実現するのに条文改正しか方法がないかといえばそうではなく、既存の条文の柔軟な解釈によって対応する方法もあります。日本国憲法には13条のように懐の深い規定もあります。いわゆる幸福追求権の規定です。その運用次第では、相当程度社会的な変化に対応することも可能です。ついでにいえば、自民党案に盛り込まれている知る権利や環境権は現在の憲法・法律の下で認められているものよりも水準が低く権利性が不明確です。たとえば、「知る権利」に関する規定は「国は、国政上の行為につき、国民に説明する責務を負う」とあるのみで、それについて国民に請求権があるということが書かれていません。憲法での明文化がかえって権利保障の拡大を妨げるかもしれません。そうではなくて、いま、論じているのは本当の意味で人権の水準と範囲の拡大につながるような人権規定の新設についてです。  いったん創られた憲法が全条文にわたって完全無欠の普遍性を誇るならば、一切の変更は認めず、改正のための規定も用意しないのが一番筋が通ります。しかし、それではかたくなにすぎるでしょう。憲法発布の勅語に「不磨の大典」と書かれた明治憲法でさえ、改正規定は用意してありました。将来の発展を考えれば、憲法の大枠は維持しつつも、部分的な修正の余地を残しておく必要があります。そのほうがかえって憲法の寿命を延ばすでしょう。これが、憲法の中に憲法改正規定が設けられていることの意味です。日本国憲法の場合は96条に規定があります。「この憲法の改正は、各議院の総議員の三分の二以上の賛成で、国会が、これを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない。この承認には、特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行はれる投票において、その過半数の賛成を必要とする。」というものです。  しかしながら、憲法改正という形で憲法変更を認めると、制憲者は将来における憲法改悪の危険性も抱え込むことになります。そこで、安易な改正が行われないように、改正手続はふつうの法律よりも厳格にします。これを硬性憲法といいます。また、あらかじめ、憲法のうちの重要な原則については、将来とも一切変更ができないように「改正禁止規定」を埋め込んでおくのも有効です。現在のドイツやフランスの憲法の改正規定には、人間の尊厳や民主主義の基本的な部分は改正できないことを明文で規定しています。 続く