Welcome, Guest
Help FullScreen Japanese

Q&A 自民党「新憲法草案」について考える

リンク元へ戻る

トップページへ

Q&A 自民党「新憲法草案」を考える                                       松井幸夫  自民党は2005年11月22日の党大会で、現在の日本国憲法を「改正」するための「新憲法草案」(以下、)「草案」と言います)を決定しました。その特徴や問題点をQ&Aで考えてみました。 【全体の特徴について】 Q:「草案」は、思ったよりも「穏やか」な「改正」案だったような気がしますが。 A:「草案」では、その作成過程の中で出されていた極端な復古調やナショナリズム過剰の表現は押さえられています。この点で、途上国の憲法や開発独裁型の国々などに見られる偏狭な価値を上から押しつけるような表現はひとまずはとられることなく、普遍的な憲法価値に則った「改正」案のようにも見えます。  しかし、「穏やか」そうな表現の陰で、平和主義や人権保障のあり方の改変、そして国家権力の「手を縛る」という憲法の本来の理念の変更などは、ばっちりと盛り込まれているように思えます。このことをしっかりと見ておくことが大切でしょう。  改憲を主張する人の中には、「憲法」というものの考え方が理解できず、また、特定の偏狭な価値を盛り込んで国民をその方向に引っ張るべきだ、との主張も声高に叫ばれていたのに、どうしてこのような「穏やか」そうに見える案がまとめられてのでしょうか。自民党の近代派が復古派を押し切ったこともあるかもしれません。しかし、より大きい理由は、今や国会の圧倒的多数を占めるに至ってはいますが細部において意見が異なる改憲勢力をまとめあげ、さらに国民投票で国民の支持を得るための配慮であることでしょう。改憲のためには国会の各議院で総議員の3分の2の賛成と、国民投票で国民の過半数の支持が必要だからです。  しかし、「草案」の性格はそのための叩き台でしょう。ですから、もっとナショナリスティックな規定を盛り込んで国民を奮い立たせるべきだ、との強面の主張に押されて変更されることになるかもしれません。注意しておく必要があるでしょう。 Q:「草案」が狙っているのは、憲法の「改正」、それとも新憲法の「制定」なのでしょうか。 A:憲法「改正」、あるいは「改憲」という言葉が使われますが、「草案」では、「日本国民は、・・・ここに新しい憲法を制定する」(前文冒頭)とされています。また、自民党は、1955年の結党以来、党の目的として一貫して「自主憲法の制定」を掲げています。  「改正」と「制定」は、時々ごっちゃにされますが、歴史的あるいは理論的には別個のものと考えられ、また、取り扱われてきました。憲法の「制定」は、主権者が憲法制定権力に基づいて過去の法的正統性とは切り離されたところで新しい憲法を作る行為です(典型的には、革命によって国王主権を否定して新しい憲法を作った近代のフランス憲法や、植民地から独立した国々の憲法など)が、憲法の「改正」は、憲法制定権力によって作られた憲法の規定(手続と制限)に従って、改正権者が憲法の枠の中で憲法が定めるルールに従ってその修正を行うものです。そこでは、「改正」の限界が大きな問題となり得ます。  今時の「草案」もそうですが、自民党は、意識的か無意識か分かりませんが(多分前者)、両者の違いを区別せず、時には現行日本国憲法の基本的な価値を否定するような「改正」を主張することもありました。 Q:憲法の理念や目的は権力者の「手を縛る」ことだと言われますが、それはどうなっているのでしょうか。 A:近代憲法の理念は、国民の権利・自由を保障し、そのための政治システムを構築することにあるとされてきました。人類の長い歴史の中でそのような考え方が生まれたのは近代になってからであり、このような考え方を「近代立憲主義」といいます。そして、そのためには国家権力を担う者たちの「手を縛る」ことが最も重要な憲法の目的となり、課題となります。なぜなら、権力は、国民に命令し、義務を課し、極端な場合にはその命を差し出すことすら求めてきたからです。だから、憲法に求められるのは、国民の権利・自由を明らかにして、国家機関にそれを守ることを義務付けることであって、その逆ではありません。  しかし、今の憲法には「権利ばかりが多くて、国民の義務が少なすぎる」等の批判を汲み上げて、「日本国民は、帰属する国や社会を愛情と責任感と気概をもって自ら支え守る責務を共有」(前文)する等の一般的な「責務」規定が導入されています。 Q:「草案」では、憲法の改正規定も「改正」されることになっています。それでは、その時々の多数者(政権担当者)が、その都合で、いつでも憲法を「改正」できることになるのではないでしょうか。 A:現在の日本国憲法では、憲法改正には国会各議院の総議員の3分の2の賛成と、国民投票で国民の過半数の支持が必要ですが、「草案」では、これを、各議院の総議員の過半数の賛成と国民投票で国民の過半数の支持に変更しようとしています(96条)。そこでは、国民投票は残されますが、衆議院と参議院の選挙で過半数の議席を得た勢力、すなわちその時々の政権の担当者は、いつでも憲法の「改正」を提起できることになります。  憲法の目的は権力者の手を縛ることにあると言いましたが、これでは、その時々の権力者は、憲法が不都合だと思えばいつでもその「改正」を提起できることになります。この「改正」がなされれば、その次以降の「改正」はもっともっと簡単になります。そうすれば、「草案」の「改正」はとりあえずのほんの第一段階で、さらにどんどん「改正」が積み重ねられることになるかもしれません。また、そんなことになると、個人の権利や自由、とりわけ少数者の人権は権力者の都合で危うくなる可能性が大きくなるのではないかと思われます。 【9条と平和主義について】 Q:現在の自衛隊は自衛軍となるそうですが。 A:今回の憲法「改正」の動きの中心が9条にあることは広く指摘されていることです。「9条の会」の目的も、この9条の「改正」に反対することです。  「草案」では、平和主義の理念である「戦争の放棄」を定めた9条の第1項はそのままとし、第2項の「戦力の不保持・交戦権の否認」が削除されることになっています。その上で、「自衛軍」と題された9条の2で新たに4項目が追加されます。その第1項では、「我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全を確保するため」に「自衛軍」を保持することが、第3項では、第1項の任務のほか自衛軍は、「国際社会の平和と安全を確保するために国際的に協調して行われる活動及び緊急事態における公の秩序を維持し、又は国民の生命若しくは自由を守るための活動を行うことができる」とされています。 Q:新たに軍事裁判所が設置されるようですが。 A:「自衛軍」が正面から認められることに伴い、軍事を通常の法律問題と別個に取り扱うための「軍事裁判所」の設置が認められることになります(76条3項)。「軍事裁判所」とは、戦前の言葉では「軍法会議」であり、軍隊の規律や戦争の遂行のために必要な事項を一般市民法とは別に取り扱う「軍法」の存在を前提とします。「軍事裁判所」は、最高裁判所の管轄権の下におかれますが、軍事優先の法体系が正面から承認されることになり、そのことによって「軍事警察」(戦前の言葉では「憲兵」)も設置されることになるでしょう。また、また、軍事裁判所は、軍人(自衛隊員)だけの問題ではなく、例えば、表現の自由や知る権利が軍事秘密に関わると主張される場合などにも影響を及ぼす可能性は高く、私たちの自由に関わる問題であることに注意する必要があるでしょう。 Q:平和主義の理念は維持されるというけれど、本当なのでしょうか。 A:このような変更があっても、「草案」は、「戦争の放棄」を定める現在の9条1項は維持するとしていることから、平和主義の理念は基本的には変わらないという主張があります。同項は、「国際紛争を解決する手段として」の戦争の放棄を定めています。しかし、現在の憲法の平和主義は、第2項の「戦力の不保持」等と一体となって意味をもち、それが世界に誇るべき特色となっています。なぜなら、「戦争の放棄」のような規定だけで、戦争をなくすることができなかったことは、歴史が証明しているからです。  戦争放棄規定が最初に憲法に登場したのは、フランス革命後の最初の近代憲法である1791年のフランス憲法であると言われています。この憲法は、「征服の目的」の戦争や「人民の自由」に対する武力の行使を初めて禁止しました。その後、このような戦争放棄規定は、いくつかの国々にも広がりました。また、第一次世界大戦後の1928年には、「国際紛争解決」のためや「国家の政策の手段」としての戦争の放棄が、日本を含む64カ国間の条約として成立しました(パリ不戦条約)。しかし、戦争はなくならず、日本国憲法制定の直接の原因となった第二次大戦を迎えることになってしまいました。  第二次大戦後制定されたドイツやイタリアなどの憲法が、何らかの意味で戦争の放棄や制限の規定をもっているように、「戦争をしません」(=戦争放棄)と宣言することは、とくに珍しいことではありません。国際連合憲章も、戦争を原則として違法化したとされています。しかし、今日でも戦争はなくなっていません。  このような歴史の展開と現実を踏まえて日本国憲法を見ると、「戦争の放棄」だけでなく、その手段・方法を含めて平和の確保を定めていること、すなわち9条の第1項と第2項が一体であることが日本国憲法の特徴であり、世界史的な画期性であるといえるでしょう。だから、第1項を残しても、第2項を削除してしまうとすれば、日本国憲法の平和主義は全く別物になってしまいます。それが、いつでも戦争ができるありきたりの国、すなわち、日本も「普通の国」になるべきだと主張する改憲派の人たちの狙いなのでしょう。  日本国憲法の平和主義は、日本が引き起こしたアジア太平洋戦争の反省を踏まえて、アジアと世界に向けての不戦の誓い、非戦の誓いという意味をもっていると思います。戦争への真摯に反省が十分でなく、対米関係だけを重視してきた歴代の日本政府ではありましたが、アジアの近隣諸国との国際関係において、この憲法の平和主義がもってきた意味は大きかったと思われます。今それを転換することが、とくにアジアの中で生きていくべき日本の今後にどのような意味をもつかを考えることも必要でしょう。 Q:自衛隊の現状は憲法とかけ離れている。だから、憲法を変えても大した変化はないのでは、という意見がありますが。 A:現行憲法の下でも自衛隊は世界有数の「軍隊」となり、1999年の周辺事態法、2003年の武力攻撃事態法、04年の国民保護法などによって、自衛隊の戦争準備体制や米軍との協力関係は格段に強化されてきています。また、自衛隊は、1992年以降国連の平和維持活動(PKO)への協力として世界各地に派遣され、2001年のテロ対策特別措置法や03年のイラク復興支援特別措置法によって、アフガニスタン周辺やイラクにまで派遣されています。このような現状からすると、憲法9条はすでに完全に「空洞化」していているのだから、憲法を現状に合わせるべきだとの主張があります。そこでは、憲法の「改正」は、自衛隊の現状を追認するだけのことだということになるのでしょう。  9条の現状をどう評価するかについては、いろんな考え方があるでしょう。しかし、ここで確認しておくべきことは、「草案」が狙う平和主義の変更は、現に存在する自衛隊を正式に認知するためだけのものではありません。むしろ、それ以外の所に目的があるといえるでしょう。自衛隊が「合憲」であることは、歴代政府が繰り返してきたことですし、それだけで憲法の平和主義を全面「改正」する必要はないとも言えます。  では、最も大きい目的は何か。それは、9条によってなお足枷(あしかせ)となっている制約を取り除くことにあると言えるでしょう。考えてみてください。イラクに派遣された自衛隊は、同じく派遣されている他の国々の軍隊とは異なって支援復興活動だけを行い、なぜ治安には責任を負わないのでしょうか。紛争地イラクに派遣されながら、なぜ非戦等地帯だけで活動しなければならないのでしょうか。イラクでもアフガニスタンでも、また、周辺事態法でも、自衛隊はなぜ戦闘行為とは切り離された後方支援(兵站)活動だけしかできないのでしょうか。それは、今でもなお憲法の制約を無視することができないからです。政府の「解釈改憲」の積み重ねによっても、日本の防衛(自衛)から離れた他国の利益や国際の利益を理由とした武力行使、すなわち「集団的自衛権」を憲法は認めていないからです。この制約を取り払い、アメリカと一体となって「国際社会の平和と安全を確保するために国際的に協調して行われる活動」(「草案」9条の2、第3項)を心おきなくできることが最大の目的ではないかと考えられます。  ほかにも9条の下での平和主義によって、日本の法制度や文化が、まだ完全には軍事化していないことも挙げられると思います。改憲がなされれば本格的に軍事を別扱いとする軍事優先の法制度の導入が可能になることは間違いないでしょう。政治文化においても、アメリカのように、ベトナム戦争や湾岸戦争での「軍功」や「武勇」が誉れとなり、それが競われる時代が来ないとはいえないでしょう。  日本国憲法の「平和の砦」の外堀は、既成事実と解釈改憲の積み重ねによってほぼ埋め尽くされてしまったことはそのとおりかもしれません。そして今度は、最後に残った内堀が埋められようとしています。外堀をどのようにして再復活させるかという議論はありますが、今内堀を埋めさせてはならないという点では多くの方々での一致が得られるのではないかと思います。 【私たちの自由・人権は】 Q:「新しい人権」を保障するためには、憲法を「改正」しなければならないと主張されていましたが。 A:改憲を推進する人たちは、日本国憲法は古くなった、時代に対応していない、なぜなら、現在の憲法には、現代社会に必要な「知る権利」も「プライバシーの権利」も「環境権」もない、と言っていました。  しかし、これらの人々が、そのような人権の実現にそれほど熱心であったとは、おそらく誰も知らなかったのではないかと思います。また、そのような主張は、憲法「改正」をバラ色に描き、抵抗感を和らげるための手段ではないかと疑った人も多かったのではないかと思います。  「プライバシー」や「知る権利」の「先進国」アメリカにおいても、それらが憲法で直接規定されているわけではありません。アメリカ憲法には、男女平等の規定さえありません。だからといって、アメリカではプライバシーも知る権利も保障されず、女性は悲惨な状況にあるとはいえないことはご存じのとおりです。憲法に規定すればその自由や権利は自動的に強く保障されるわけではありません。逆に、これらの人権は、憲法では直接の規定はないが、憲法上の人権として保障されていることは、日本の最高裁も承認しているところです。とすれば、「新しい人権」規定のないことが改憲の直接の根拠になることはないように思われます。  なお、「草案」では、「個人情報の保護」(19条の2、第1項)はあるものの「知る権利」の保障は外され、国の説明責任が国民の権利としてではなく国の「責務」として規定されただけでした(21条の2)。環境についても、「国の環境保全の責務」が努力義務として規定されているだけです(25条の2)。  このほか「草案」では、「障害の有無」による差別の禁止(14条1項、44条)、「犯罪被害者の権利」(25条の3)、「知的財産権」(29条2項)などが定められることになっています。 Q:人権はちゃんと保障されるのでしょうか。新たなに制約を受けるということはないのでしょうか。 A:「草案」では、権力者の手を縛るのではなく、権力者、すなわち政府が国民に要請ないし強制してその遵守を求める「責務」という考え方が前文などで出てきていることについては、先に述べました(例えば、前文の、「帰属する国や社会を愛情と責任感と気概をもって自ら支え守る責務」)。それが実効的な法的意味をもつとすれば、私たちの自由はかなりの範囲で制約されることになりかねません。(例えば、現段階では学校等の教育現場にとどまっていますが、国旗、国歌の強制などを想像してみてください。)このほか、第三章の「国民の権利及び義務」の中にも「責務」規定が追加されています。  また、「草案」は、現在の憲法12条、13条の「公共の福祉」の言葉を、「公益及び公の秩序」に置き換えるとしています。(29条も。このほか22条は削除。)その理由は「公共の福祉」概念が曖昧だというところにあるようです。  なるほど、かつて最高裁は、「公共の福祉」を人権の保障をなで切りにする万能策として濫用してきました。死刑を合憲とした判決で、「人の生命は尊貴である。人一人の生命は全地球より思い」と言いながら、続けて、その生命でさえ「公共の福祉」のためには剥奪される、としたような論法で。しかし、そのような論法では、憲法の人権保障は無意味となりかねないという長年の強い批判の中で、「公共の福祉」とは「人権相互の矛盾・衝突を調整するための実質的公平の原理」とする考えが学説の主流となり、それは最高裁にも影響を与えてきています。  「公共の福祉」にはなお曖昧さが残ることは確かです。しかし、その概念は、「市民共和」という政治の最高善を表す崇高な理念に由来すると言われてきました。今これを「公益及び公の秩序」と置き換えることは、個人や市民の自由の理念を押し潰す超越的な概念、すなわち「公共」ではなく、真の「公共」を押し潰す「公」の跋扈(ばっこ)、言い換えれば「公」を独占する政府、権力者の「市民的公共」に対する優位をもたらすのではないかと危惧されます。  「公共の福祉」という言葉は、憲法だけでなくいろんな法律の中でも使われています。例えば、放送法は、「放送を公共の福祉に適合するように規律」するための法律とされています(同法1条)。これが「放送を公益及び公の秩序に適合するように規律」するとされた場合には、放送に対する政府の規制はますます強められるような気がするのですが。 Q:政教分離の原則が変更されるそうです。政治と宗教はまた結びつくのでしょうか。 A:「草案」で個別的な人権規定は概ね現在のものが踏襲されますが、大きく変更されるのが「信教の自由」(20条)です。すなわち、「社会的儀礼又は習俗的行為の範囲」内での国(政府)の「宗教教育その他の宗教的活動」は一定の範囲で認められ、宗教団体等への公金の支出もその限度で認められることになります(同条3項、89条1項)。  現在の憲法は、神社神道が国教(=国の公の宗教)としての位地を占め他の宗教宗派を抑圧し、さらに軍国主義の精神的支柱となった戦前の反省を踏まえて、国やその機関が「いかなる宗教活動もしてはならない」とする厳格な政治と宗教の分離(政教分離)を定めています。  しかし、小泉首相の靖国参拝などに見られるように、この分離を曖昧にして「公の宗教」を事実上作り上げようとする動きが存在ししてきました。「草案」では、それを憲法規定上認めようとしているようです。この政治と宗教との関係の変更は、人々の心の中の自由の問題にもつながっていくことにもなるでしょう。 Q:「草案」には、その他どのような特徴があるのでしょうか。 A:人権にも関わる新たな規定として、「草案」は、「政党」条項を提案しています(64条の2)。政党は、国民と国会あるいは政府との間をつなぐ「伝声管」として、現在民主主義に不可欠なものであることは間違いありません。その結成と活動が自由であることは、現在の憲法でも結社の自由、表現の自由として保障されていることにも異論はありません。とすれば、新たに政党について特別の規定をおくことの意味は何かということが問題になります。政党の重要性からこれを特別に定める憲法も増えてきていますが、政党を特別に位置づけて保護する反面、その対象や範囲を限定するなどして規制することにもなりうることを見ておく必要があるでしょう。  このほか、政治システムに関して、首相の地位の明確化(72条)、財政(86条ほか)、地方自治(91条の2以下)などに新しい規定が入っていることに注意を向ける必要があるでしょう。 【憲法「改正」の国民投票について】 Q:憲法の「改正」には国民投票が必要です。そのための国民投票法の作成作業が進んでいると聞きましたが。 A:憲法「改正」の作業が進む中で、「改正」に必要な「国民投票法」を制定しようとする動きが強 まってきています。「改正」のためには、国会だけでなく国民投票で「その過半数の賛成」が必要だからです(憲法96条)。今までも憲法「改正」の動きはありましたが、国民投票法の制定が具体的な政治日程に登ってきたのは初めてのことです。この国民投票法の制定が憲法「改正」手続の開始を前提にしていることは明らかですが、今すぐこのような法律を制定することが必要かについては議論があります。   また、その法律の内容によって、憲法「改正」案に対する国民の正確な意思決定が阻害されるおそれも出てきます。例えば、「国民」の範囲をどうするのか--選挙権と同じか、世界の常識に従って、例えば18歳に引き下げるのか、個別投票か一括投票か--「改正」点についてそれぞれ別個に国民の意思表明を求めるのか、まとめて一括して賛否を問うのか、国会が「改正」案を発議したあと、国民投票までの周知・熟慮期間をどのくらいにするのか、「改正」案に対する国民・市民の運動の自由と公正をどう確保するのか--選挙並みの厳しい規制を課すことが許されるのか、「改正」提案者である国会の3分の2以上の多数派による上からの宣伝・広報に対して国民間での議論の公平さをどう確保するのか、「改正」によって影響を受ける定住外国人にも運動を認めるのか、などが問題となるでしょう。その決め方によって、国民投票の正統性とともに、その結果が影響を受けることもあるでしょう。