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天皇・マッカーサー会談

  天皇・マッカーサー会談 ―― 昭和天皇と歴史の“ねじれ” ――                        (豊下 楢彦・関西学院大学) 「戦争裁判に対して貴司令官が執られた態度に付、此機会に謝意を表したいと思います」。これは、マッカーサーが朝鮮戦争の指揮をめぐって連合国最高司令官の職を解任され帰米する前日の1951年4月15日に行われた会見における昭和天皇の発言であって、通訳をした外務省の松井明がメモとして書き残していたものである(「松井文書」)。「東京裁判史観を否定しないかぎり、日本の精神復興はできない」との信念に基づいて78年にA級戦犯の合祀に踏み切った靖国神社の元宮司松平永芳が聞けば驚愕したであろうこの発言は、去る7月20日に日経新聞がスクープした「富田メモ」の信憑性を裏付けるものである。  天皇が75年以来靖国神社への参拝を取りやめた理由がA級戦犯の合祀にあり「それが私の心だ」、との発言については一部に疑問視する声もあるが、それは天皇の透徹したリアリズムを理解していないからである。天皇は個人としては東条英機を初めとして処刑されたA級戦犯達に対して人間的な感情の痛みを抱いていたであろう。しかし、敗戦を喫した日本において天皇制を維持していくために、「すべての責任を東条にしょっかぶせるのがよいと思う」(東久邇首相)という路線に従って、自らの戦犯訴追免除と東条責任論に踏み切っていった。45年9月25日、マッカーサーとの初の会見を二日後に控えて天皇は米紙『ニューヨーク・タイムズ』の記者に対し、「宣戦の詔書を、東条大将が使ったように使われることは意図していなかった」との回答を書面で与えたが、これは「米大統領へのメッセージ」としての意味をもっていた。(なお、この度回答文書の「控え」が宮内庁で確認され、一部にあった「捏造論」は崩壊した。『朝日新聞』7月26日) さらに天皇は、東京裁判を前にした翌46年1月29日、日本の皇室と最も近い関係にある英王室の国王にあてた「親書」で、より踏み込んだ東条非難を展開した。「私は当時の首相東条大将に対し、英国での楽しかった日々を想い起こしつつ、強い遺憾と不本意の気持ちをもって余儀なくするのだと繰り返し述べながら、断腸の思いで宣戦の詔書に署名したのであります」。自らは反対であったが東条の“強制”によって宣戦せざるを得なかったという、東条が知ったならば嘆き悲しむであろうこの“弁明”は、5年を経てマッカーサーとの最後の会見で行った冒頭の「東京裁判への謝意」発言と、見事に重なり合うものである。 結果的には部下たちを“非情に”切って捨てることによって東京裁判を「日米合作」で乗り切った昭和天皇は、戦後の日本において天皇制を堅持していくことができる安全保障体制の構築に踏み込んでいった。新憲法が成立して十日後に行われた第3回会見(46年10月16日)で天皇は、「戦争放棄を決意実行する日本が危険にさらされる事のない様な世界の到来を、一日も早く見られる様に念願せずには居れません」と憲法9条への“不安感”を表明したのに対しマッカーサーは、「戦争を無くするには、戦争を放棄する以外には方法はありませぬ。それを日本が実行されました」と、9条の理想を粛々と説いたのである。 しかし半年後の第4回会見(47年5月6日)において天皇は、なお9条の意義を唱え続けるマッカーサーに痺れを切らしたかのように、「日本の安全保障を図る為にはアングロサクソンの代表者である米国がそのイニシアティヴをとることを要するのでありまして、その為元帥の御支援を期待しております」と、事実上米軍による日本防衛を要請した。この会見が行われたのは、新憲法が施行されてから3日後のことである。「象徴天皇」となった昭和天皇は、はたしていかなる資格と責任において、日本の安全保障という「高度に政治的な問題」について発言を行ったのであろうか。東京裁判対策としてまとめられた『天皇独白録』では、戦前・戦中期も一貫して「立憲君主」としての立場を堅持し、政治への介入を極力避けてきたことが強調されているが、マッカーサーとの会見記録は、そうした“弁明”の前提を掘り崩すものである。ちなみに、「25年から50年、あるいはそれ以上にわたる長期の貸与というフィクション」のもとで米軍による沖縄占領の継続を求める、という天皇の「沖縄メッセージ」が米側に伝達されたのは、この会見から半年後の11月19日であった。 さて、天皇による日本防衛の要請に対してマッカーサーはいかに応えたのであろうか。これまで第4回会見については、作家の児島襄氏が「閲読できた」とされる記録では「後半部」が「切除」されていたために、マッカーサーが「カリフォルニア州を守るように日本を守る」と保証した、との説が有力であった。しかし「松井文書」によって全く逆に、「日本としては如何なる軍備を持ってもそれでは安全保障を図ることは出来ないのである。日本を守る最も良い武器は心理的のものであって、それは即ち平和に対する世界の輿論である。自分はこの為に日本がなるべく速やかに国際連合の一員となることを望んでいる」と、マッカーサーがなお9条の論理を掲げていたことが明らかとなった。 こうした憲法9条をめぐる両者の見解の相違は、その後も長く続くことになる。たしかに第9回会見(49年11月26日)においては、天皇が「ソ連による共産主義思想の浸透と朝鮮に対する侵略等がありますと国民が甚だしく動揺するが如き事態となることを惧れます」と、あたかも朝鮮戦争の勃発を予測したかのように共産主義の脅威を訴えたのに対しマッカーサーが、日本が主権を回復した後も「過渡的な措置」として英米軍が駐留を続ける考えを初めて表明し、天皇が「安心致しました」と安堵する場面も見られた。しかし、半年後の50年4月18日に行われた、本格的な会見としては最後となる第10回会見において天皇が、中国やインドシナ、朝鮮半島、日本など内外の共産主義の動向に触れた上で、「イデオロギーに対しては共通の世界観を持った国家の協力によって対抗しなければならないと思います」と主張したのに対し、マッカーサーは今回は米軍駐留について明言を避け続けたのである。というのも、彼は当時『リーダーズ・ダイジェスト』誌において「日本は極東のスイスたれ」と、改めて“持論”を展開していたからである。 憲法9条の理想に固執するマッカーサーの対応を見限ったのであろうか、天皇は50年8月に、講和問題の責任者であるダレスに対し、「基地問題をめぐる最近の誤った論争も、日本の側からの自発的なオファによって避けることができたであろう」との「文書メッセージ」を直接送ったのである。「最近の誤った論争」とは、7月末の参議院外務委員会において吉田茂首相が「私は軍事基地は貸したくないと考えております」と発言したことへの非難を意味しており、天皇としては講和後の日本の防衛を確実なものにするためには、日本の側から自発的に無条件的に米軍に基地を提供する明確な意思の存在をダレスに伝えることが緊要の課題とみなされたのであろう。  日本占領の最高司令官や首相および外務省の「頭越し」になされた、この明々白々たる「政治的行為」は、天皇の側の切迫した危機意識を背景としていた。それは、天皇制打倒を叫ぶ共産党と国際共産主義が結託して本格的に日本への侵略に乗り出してくるのではないかという恐怖感であり、朝鮮戦争の勃発はその開始を意味していた。その後、講和条約や安保条約の締結に至る道筋は文字通り紆余曲折を経ることになるが、結果としては天皇が構想していた、無条件的な基地提供によって米軍が日本に駐留を続けるという戦後の安全保障体制が構築されることになった。  外国軍による日本防衛という、戦前には夢想だもできなかった方向に基本戦略を定め、「象徴天皇」の枠をも踏み越えて天皇を「政治的行為」に突き動かしていったものは、非武装憲法の日本において天皇制が共産主義から防衛されるためには米軍に依拠する以外の選択肢はないという、文字通りのリアリズムであったろう。要するに、天皇にとって戦後の「国体」とは安保体制そのものであった。 かくして昭和天皇にあっては、東京裁判を受け入れ「公正寛大な講和条約」を歓迎することと、安保体制を固め米軍の駐留を確保し続けることは、天皇制を維持するために不可欠にして密接不離の関係にあった。ところが、戦後の一時期を越えると保守勢力は「東京裁判史観」批判を主要なイデオロギーにすえることになる。しかしそれは、一切の戦争責任を「東条一派」に押し付けることによって敗戦直後の危機を乗り切ってきた昭和天皇の論理を否定するものに他ならない。だからこそ天皇は「富田メモ」において、東京裁判対策に奔走した松平慶民を評価する一方で、その子永芳を「親の心子知らず」と厳しく叱責したのである。 こうした叱責はまた、保守勢力のイデオロギーがはらむ深刻な“ねじれ”をも浮き彫りにするものである。なぜなら、「東京裁判史観」を押し付けた米国は同時に、日本を米国の「属国」にする安保体制をも押し付けたからである。前者を批判して後者は受容するという“ねじれ”を抱え込んだ「新しい歴史教科書の会」の分裂は、この意味で必然の成り行きであった。ただ注目されるべきは、安倍晋三「新首相」の試みである。彼は「独立憲法」を制定し日本の「軍事貢献」を飛躍的に高め米側と「対等」の関係を作り出すことによって“ねじれ”の解消を図ろうとしているのである。しかし現実には、英国のブレア首相がイラク戦争に「参戦」することによって米国に対する発言権を確保しようとして見事に失敗したように、米国の軍事戦略の「下請け」としての役割を越えることはできないであろう。とすれば、“ねじれ“を解消する方向性は「自虐史観」を克服するナショナリズムの高揚に求められ、しかもそれは何よりも「日米共通の脅威」とされる中国に向かう偏狭なものとなる危険性をはらんでいる。 < 安倍は日本の中国に対する戦争について問われるといつも「歴史を善悪二元論で片付けることはできない」と答え、歴史の評価は歴史家に委ね政治家は避けねばならないと強調する。しかし奇妙なことに彼は、ヒトラー・ドイツについては明確に「悪」と評価しているのである。つまり、彼の「歴史相対主義」は実質的には、ヒトラーの戦争と日本の戦争を峻別し、後者は「自衛戦争」であったという「歴史認識」の表明に他ならないのである。これは、95年の「村山談話」からの離脱を意味しており、時代は新たなレベルでの「逆コース」という様相を呈してきた。> かくして改めて焦点は、対中ナショナリズムの原点としての靖国問題に絞られることになる。ここにおいて、戦後の日本が抱え込んだ最も深刻な“ねじれ”の問題を抉り出さねばならない。それは、靖国神社にまつられている「英霊」とは何か、という問題である。基本的に「英霊」とは、「聖戦」、つまり「天皇の意を体した戦争」で倒れた軍人達の御霊を意味している。ところが、昭和天皇が死去して以来今日に至るまで、主要なメディアはもちろん、「自存自衛の戦争」を掲げる「靖国イデオロギー」の担い手達も、「昭和天皇は戦争に反対であった」「天皇は平和主義者であった」と主張し続けているのである。つまり、「天皇のための戦争」に殉じたはずの「英霊」達は今や、実はあの戦争は「天皇の意に反した戦争であった」と宣告されているのである。これ程の欺瞞と悲劇性があるであろうか。 戦後の日本は、この根本的な“ねじれ”の問題を放置したまま60年間を過ごしてきたのである。靖国問題は小泉首相のレトリックによって、中国や韓国に対する偏狭なナショナリズムのシンボルと化しつつある。しかし、昭和天皇の言動を捉え直すことによって、靖国問題とは日本の過去・現在・未来のあり方そのものを抉り出すシンボルであることが明らかとなってくるのである。 参考文献 拙論「昭和天皇・マッカーサー会見を検証するー「松井文書」を読み解くー(上下)」『論座』2002年11月、12月号。同、「「天皇・マッカーサー会見」の歴史的位置(上下)」『世界』1990年2月、3月号。拙著『安保条約の成立』岩波新書、1996年。

関学9条の会の会員の豊下楢彦氏が、2006/9/8「週刊金曜日」に昭和天皇の言動から、靖国神社や政府の歴史認識を問う論文を発表されました。9条の意義を考える上でも非常に有益ですのでここに掲載させていただきます。なお、青字の部分は、週刊金曜日からは省かれています。